タヒチは日本から南東約9000km、フランス領ポリネシアでは最大の島で、面積は約1000km2、淡路島の二倍半で、人口は8万5000人である。歴史に登場するのは新しく十八世紀も後半の一七六七年、イギリス海軍のサミュエル・ウォリスのソシエテ諸島発見によって、スペインやオランダの船がこの海域を航行するようになり、ポリネシアの島々がヨーロッパに知られるようになったのである。
翌一七六八年には、フランスのブーゲンビル(ブーガンヴィユ)提督(熱帯花木のブーゲンビレアは提督の名をとったもの)、一七六九年には、ジェームズ・クック船長、さらには、パンノキを求めて「戦艦バウンティ号の叛乱」で有名なブライ艦長が一七八八年に訪れている。この時の叛乱水夫と現地人との混血の末裔が現在でも多く住んでいる。
○モーレア島
一九九〇年六月二十六日、成田から十三時五十五分発エアーフランス二八〇便に乗る。タヒチのパペーテに着いたのは同日五時五十五分。日付変更線を越えたので、出発時より到着時が前になる実質十時間のフライトである。これから向かうモーレア島は周囲60km、タヒチの西約15kmに位置し、かつて、ブロードウェイのヒットミュージカルを映画化した『南太平洋』で、バリハイのモデルになった島である。中心にあるモウアロア山(海抜880m)の奇形は雲を突き、エメラルドグリーンのラグーンとの対比が素晴らしく、観光の目玉になっている。画家のゴーガンは著書『ノアノア』の中で、この山の先端がギザギザでまるで古城のようだと表現している。
さて、フェリーの中では地元の人々が輪になり、ウクレレを囲み、タヒチ音楽を演奏しはじめ、船の客の手拍子を誘い、わずか四十分の船旅に旅情を添えている。海上から見るタヒチ島は、海抜2241mのオロヘナ山を中心として山々が連なり、海上アルプスの観がある。バイアレの港に接岸、港といっても付近に民家はなく、建物はフェリーの事務所があるだけで、広い駐車場には客を運ぶバス、乗用車が迎えに来ているまったくの田舎の船着き場である。われわれを乗せてきたフェリーは、日本製で沖縄~久米島間に就航していたもので、退役後、再度のお勤めで、現地の生活物資や観光客を運んでいる。
船着き場には、ビールやジュースを商う物売りが数人おり、中に手かごに、クリの三倍程の大きさの茹でた果実を売る者がいる。珍しさも手伝って仲間の一人が買った。ちょうどサツマイモとクリの中間の味で、ポクポクして美味しい。現地語で、「マペ」とかいっていたが、みんなは正体が解らず、わたしはとっさにタイヘイヨウグルミ(Inocarpus edulis)と答えた。名はクルミであるが、マメ科の高木で20m以上になり、太平洋諸島に分布している。豆果は扁平な腎形から球形で、長さ約10cm、幅は7.5cmほど、二から三個集合して着生する。種子は妙って食べたり、煮食し、葉は厚い紙質で硬いが、ヤギの飼料にする。材は硬く、家具や柱として、樹皮は渋く、薬として使われている。幹に傷つけると、赤い汁液を出し、成木になると、三角錐状の板根が発達する。この樹が分布している地方では、副食として子供のオヤツ、夜食、また荒歳時の食料として利用されてきた。食べるのは筆者も初めてだが、一九八八年ポナペ島で樹を見、果実も採集したことがあり、覚えていたわけである。迎えのバスに乗り込み、この日の宿泊ホテルのモーレア・ラグーンに向かう。途中のクック湾、ここはキャプテン・クックが上陸したところで、フィヨルドのような深い入り江になっており、折しも日本の自衛艦が投錨していた。横須賀を母港とする「香取」を旗艦として、計三隻の練習艦隊である。翌日、隊員達と話す機会があり、オーストラリア、ニュージーランドを回ってタヒチに来たとのことで、この後はメキシコ、アメリカ、ハワイを経て日本に帰る。およそ半年間の練習航海だそうだ。公海上でいろいろな訓練を行なうとのことである。反対に「皆さんは何をしに来られたのですか?」と質問された。「植物を観察に」の答えは、彼らにとって理解できなかったかもしれない。
○アオイの話
ホテルはラグーンに面して海浜性の樹木が多く植栽されている。オオハマボウ(Hibiscus tiliaceus)に混ざり、よく似た樹が生えている。花は黄色で、底が茶色。明らかにアオイ科の花で、葉は長心臓形、高さは10mほどあり、サキシマハマボウ(Thespesia populnea)の近緑種と思われた。オオハマボウは別名ヤマアサとも呼ばれ、樹皮から繊維をとり、布やロープ、腰蓑の材料として利用されてきた。アオイ科の植物は、花が綺麗で、観賞用に多く用いられ、ハイビスカス、フヨウ、ムクゲ、タチアオイなどがあるが、繊維を採るものとして、ケナフ、ワタ、イチビ、オオハマボウなど、実を食用として、トロロアオイ、オクラ、糊の代用としてオカノリなど、人間に有用な植物が多くある。アオイの話がでたついでに、「この印篭が目に入らぬか」でお馴染みの水戸黄門の三ツ葉葵は、アオイ科の植物と思っている方が多いが、まったくアオイ科とは関係がないウマノスズクサ科の植物である。おそらく東海地方に自生するフタバアオイ(Asarum caulescens)をモデルにしたものでないかと思っている。この仲間は林床に生える多年草で、カンアオイ、ウスバサイシンなどを含め、日本には約二十数種があり、古来より霊草とされてきた。松平氏は、三河中央部に勢力を伸ばすに当たり、この地方の古代の伝統的豪族の加茂氏にあやかり、加茂氏を祭ったとされている加茂神社の紋章のアオイをいただいたわけである。現在京都にある上賀茂、下賀茂神社の祭礼を葵祭りといい、フタバアオイの葉を社前に掛け、牛車にも葵の蔓を掛け、参列した者達も頭や烏帽子にフタバアオイの葉を挿した。もっとも、家紋に用いたのは松平家(徳川家)ばかりではなく、徳川諸代の本多家も「丸に立葵」の紋である。これは本多家の祖先が、賀茂神社の社職であったことによる。ことに、カンアオイ類はその植生を広げるのが最も遅い植物とされている。何百年経っても、その分布は数十m四方であるので、古代の地理を調べるための標識植物とされている。例えば、三浦半島にあるものと房総半島にあるものは同種で、大昔は両半島の先端は陸続きではなかったかと想像されている。
六月二十七日、オプノブ湾。鏡のごとき湾内には、数十隻のヨット、クルーザーが停泊している。世界一周するこれらの船は、何ヶ所かのチェックポイントがあり、そのすべての証明があって、世界一周が認められるとのことで、ここもそのチェックポイントの一つである。沖合い200mに泊っているヨットは、日本のものらしかったので大声で呼んでみると、これまた、若い日本の女性がキャビンより出てきた。遠いので何を答えているのか定かでないが、確かに日本語である。この湾は映画『南太平洋』のメインロケ地で、例のモウアロア山がバックに聳え、ココヤシの茂る浜辺は正に絶景である。奇岩とも見えるこの山は、恐らく何十万年か前の島創成期、地底のマグマが火口までせり上がったものが、そのまま冷えて固まったもので、火山を形成していた火山灰や礫は長い年月に風化し、流され、硬く固まった火道のマグマだけが、そのままの形で残ったものであろう。この例は国内では、伊豆大島の筆岩、大きい物は、伊豆南方の霜婦岩が絶海の中に柱状に起立している。
タヒチ、モーレアは、画家ゴーガンにあやかって、ヨーロッパから住み着いて絵画創作活動する連中(失礼!芸術家と呼ぶ)が多く、その中の一軒のアトリエ兼土産絵画売り場に立ち寄るが、メンバーの中で求める者は誰もいない。これは絵心がないのではなく、金がないか、趣味に合わないかと解釈している。
クック湾とオプノフ湾を見下ろせるベルベデールの高台は海抜約300mで、眼下に大パノラマが広がる。遠くの環礁はコバルトブルーの海に白い糸を引いたような鮮やかさである。環礁を境に、外海は紺碧、深度も一挙に何百mとなる。なだらかな山麓には大高木はないが、緑は濃い。この植物相からみて、雨期(十二月~二月)と乾期(三月~十一月)はあるものの、年間雨量は2000mm前後とみた。山が貯水槽の役をしており、谷間の流れは乾期にもかかわらず、枯れることもなく水質もよい。水質の良さは日本に代表されるが、花商岩を基盤とした土地がよいからで、透明で不純物も少ない、名水と呼ばれるものが多い。昼食は海岸通りの中華レストラン。現地生産の「ヒナノ」というビールで乾杯する。苦味が少なく、淡泊なビールである。沖縄のビールも然りであるが、熱帯地方のビールはみな淡泊である。
○バニラとコーヒー
午後はアファレアイツの滝(落差約50m)に向かう。ここは島の南東部、アファレアイツ村から山岳部に入ったところで、山道に入ったとたん、オンボロバスがパンクして歩く羽目となった。この辺りは、まず観光客は来ない場所で、高さ20~30mの高木林の中に忘れられたように、現地人の家が散在している。放し飼いのニワトリや馬、疎林の中に等間隔に置かれた高さ1.7m程の工作物が目についた。近寄ると鉄筋を地面に立ててヤシ殻をヤキトリ状に挿して、蔓状の多肉質の植物が絡ませてある。ラン科のバニラ(Vanilla planifolia)である。タヒチは観光以外の産業としてバニラが有名で、山には野生化したものも見られる。一般の人たちはバニラといえば、白いアイスクームと思っている人が多いが、これは間違いで、バニラから採れるエッセンスが入っているだけの話である。このラン科植物は、新旧熱帯に約七十種が知られており、花は径10cm位で淡緑色、果実は長さ15~20 cmのさく果で、これを加工して調味料やエッセンスとして利用するものである。1kmも歩くと道は細く、急な登りとなり、いつしかその道も消滅して、ガイドの勘が頼りとなる。アカメガシワ、オオハマボウの林に混じって、野生化したアラビアコーヒーノキ(Coffea arabica)が多く見られる。アカネ科コーヒーノキ属は熱帯アジア・アフリカに約三十種あるが、全世界のコーヒー豆生産量の90%は、現生地エチオピアのアラビアコーヒーノキによって賄われている。ついで、コンゴ、ウガンダが原生地のロブスタコーヒーノキ、リベリア原生のリベリアコーヒーノキと続く。アラビアコーヒーノキは十世紀以降にアラビアに導入されたので、この名がある。このころは、一般には豆を揚げたり、煮たり、食料として利用され、飲用では乾燥した豆を砕いて煮出して飲むという方法がとられた。また豆を発酵させて、酒も作られていたが、十三世紀の中頃に炒って煮出す飲み方が開発された。開発とは大げさだが、筆者の推察では、コーヒー倉が火事になり、貴重なコーヒーが蒸し焼きで真っ黒、捨てるにはもったいないので煮出して飲んでみたら意外と旨かった、などの偶然から、つまり「ヒョウタンから駒」的なものではないかと勘ぐる次第である。いずれにしろ、コーランで酒を禁止されているイスラム教によって熱狂的に歓迎され、ヨーロッパには、十七世紀に伝わり、次第に全世界に広まったものである。現在、コーヒー豆の総生産量は620万tで、そのうち、ブラジル211万t、コロンビア65万tと南米が最も多く、アフリカが130万tである。世界一のブラジルは、降霜のため生産量が激減する年があり、これによって値も大きく変動するのである。カフェの名の由来は、原生地エチオピアのカファ州からきており、この地方の山岳部には未だ原生種がある。カファ州はエチオピアの西南部にあたり、海抜2000mのアビシニア高原があり、4000m以上の高山が七つある。アラビアコーヒーノキは2000m程度の場所を好んで生えているという。これは熱帯でも降霜のある場所で、もともと高温が嫌いな性質をもっているのである。したがって、世界一のブラジルでも、植物の特性に合わせて高原で生産され、霜害は宿命的な問題となっているのである。アファレアイツの滝壺周辺は、意外と植生が乏しく、野生のタロイモ、イネ科のメヒシバに似たもので占められている。滝の落下水量は少なく、周辺は玄武岩がむき出し、縦に重なる節理状層がよく観察できた。これは玄武岩の一枚岩と岩の間に柱状に節理が挟まって、その層が四重になったものである。滝壺の岩かげから巨大なオオウナギ(Anguilla marmorata)が頭を出し、恐れる様子もない。カバヤキにするニホンウナギ(A. japonica)とは種が異なり、大きいものは体重20kg、長さ2mにもなる。熱帯性の魚類だが、黒潮に乗って日本にも棲みつく。徳島の母川、和歌山の富田川が北限とされ、特に鹿児島の池田湖のものは有名である。ウナギ科は世界に十六種三亜種が知られ、タヒチには四種が混棲している。ウナギの産卵場は水深4000~5000 mの海溝部の上層300~500 mといわれている。卵を生みに行くウナギは、淡水生活約八年を経てから海に向かう。この頃のウナギは「下りウナギ」といって、体は黒くなり、餌は全く食べず、産卵後は死ぬ。ニホンウナギの分布はフィリピン北部、ベトナム北部から中国、朝鮮、台湾と広く、食用として利用されてきたが、太平洋諸島では、古来より信仰や伝説の多い魚で、ほとんど食べる習慣がない。内南洋諸島(旧日本統治領)では神聖なもの、ポリネシアでは性交の神、縁結びの神でもある。
○バウンティ号の叛乱
さて、タヒチといえば、植物がらみの歴史的な事件があった。例の「戦艦バウンティ号の叛乱」である。これはかつて映画化され、マーロン・ブランドの主演が光った作品であった。イギリスは、十八世紀の後半より、西インド諸島の開拓に着手し、労働力として西アフリカ海岸地方より拉致してきた黒人を奴隷として使っていた。当時の役人は安い食糧として、パンノキの導入を国王ジョージ三世に請願したのであった。その橋渡し役として、バンクス卿(Sir Joseph Banks)の進言が取り上げられ、クック船長の第三次航海(一七七六~八〇年)に参加したレゾリューション号の航海長ブライ(William Bligh)をバウンティ号の艦長として派遣することになったのである(クックは第三次航海中ハワイで殺害され、ブライはその生き残りである)。
バウンティ号は、一七八七年十月二十三日、英国を出航し、約一年後の一七八八年十月二十六日、タヒチ島に到着している。一行は約半年かけてパンノキ1015本、有用植物の鉢植え774鉢、種子などを詰めた木箱39個を船積みし、一七八九年四月四日、タヒチ島を出港した。水夫はうだる暑さとパンノキに灌水する以外の厳しい給水制限、六ヶ月間のタヒチ娘との生活に未練が残り、これらが大いなる不満となり、ハアペ諸島(トンガ)沖にさしかかった一七八九年四月二十八日明け方、フレッチャー・クリスチャン(Fletcher Christian)を頭として叛乱をおこし、艦長以下腹心十八名をボートに追放したのである。艦を奪った叛乱水夫は、積み荷を海に投げ出し、タヒチ島に戻った。追放されたボートは、四十七日間の想像を絶する漂流の末、実に3618海里(約67000km)を乗り切り、全員無事チモール島に漂着したのであった。その後のことは書物で読んでもらうとして、一七九〇年、帰国したブライは、初志を貫くべく再び「プロヴィデンス号」を率いてタヒチに行き、700本のパンノキほか、1200の有用樹を積み込み、一七九三年西インド諸島セント・ヴィセント島に移植したのであった。
六月二十八日、フェリー発着所とは反対にあたる西側、ハアピチ集落からモウアロア登山に向かう。この山も頂上部約300mは切り立った玄武岩で、ロック・クライミングの専門家でなければ、登頂は不可能である。われわれの山登りは植物を観察するためや、ふもとの緑豊かなジャングル歩きをするためである。マイクロバスで行ける所まで行き、後は徒歩になった。集落近くの山は焼き畑で、キャッサバ、バナナ、タロイモが栽培されている。中でもパイナップル畑が多い。この果実や加工品はフランス本国に送られ、重要な収入源となっている。
○パイナップルとキャッサバ
パイナップル(Ananas comosus)は中南米原生種で、コロンブスが一四九三年、西インド諸島のグアドループ島で発見したときは、すでに人為的に中米各地で栽培されていた。日本には一八四五年にオランダ船によってもたらされた。急速に全世界に広がったのは十九世紀の中頃である。英名パイナップルは、松カサ(Pine)とリンゴ(apple)の合成語だが、和名は鳳梨という。現在では、百以上の栽培品種があり、果実を食べるほか、葉の繊維から糸やロープ、布なども作られる。品種大別すると、カイエン系、クィーン系、スパニッシュ系、プエルトリコ系の四系統がある。
マリアナではPina、パラオではChongor Ngabard、タヒチではPainapoと呼ばれている。日本では、パイナップル科の植物の総称をアナナスと呼んでいるが、アナナスは一属の名で、外国ではブロメリアド(bromeliad)と呼ばれ、大形地生種は葉筒に大量の水を貯えることができる。
一八八二年、スエズ運河を建設したフランスのレセップスは、パナマでも同じ海面をレベルとした運河を掘ろうとして失敗した。地理的には地峡幅は短いが、この地域は各所に断層や火山岩がむき出し、工事費がかさみ過ぎたのと、病気(マラリア)で倒れる人夫が続出したためだ、といわれている。マラリアの病原菌を媒介する蚊は、パナマ地峡に大量に自生するタンク・プロメリアの葉筒中で育ったボウフラが羽化したものであった。そこで、この大形パイナップル科の膨大な量の植物の駆除から行なったが、これは予算から外れた予想もしなかった出費だったのである。その後、アメリカが水門式の運河建設に当たり(一九〇四年)、総延長65km、六段階の水門を持つこの運河は、十年の歳月をかけて一九一四年に完成した。
全費用を出費したことにより、アメリカはこの運河の永久租借の権利を得たのである。それから強力な運河返還運動が起こり、その条約期限を一九九九年として、パナマ帰属などが合意された新条約は一九七七年に締結された。アメリカが大量の水を必要とする水門式を取り入れ、建設に成功したのは、年間4000mm以上といわれるパナマ地峡熱帯降雨林の山々に降る雨量を計算に入れて、自然を味方にしたことによる。
キャッサバ(Manihot esculenta)は、中米原生のトウダイグサ科の木本でダリアの球根に似た芋をつける。芋は、中心部は繊維質が多く、全体で20から30%の澱粉質を含み食用にされる。熱帯地方では、小枝を挿してから一年足らずで収穫ができる。十六世紀、ポルトガル人によって持ち出され、アフリカ、東南アジアと東回りで伝播され、旧熱帯に広まったのは十九世紀になってからで、比較的新しい作物である。樹液はマニホトキシン(Manihotoxin)を含み、澱粉はよく晒さないと有毒である。澱粉はタピオカデンプンと呼ばれ、主に加工用に使われ、アルコール発酵、アセトン発酵の原料としても重要である。
数年前、この世界一安価なデンプンに目をつけた日本の外食産業々者が、流行の健康食、ダイエット食品として売り出し、無知な消費者(失礼)はわれ先にと、このタピオカに群がった。結局儲けたのは業者だけではなかったか。タピオカは繊維と澱粉以外、これといったビタミン類や蛋白質などの栄養分はほとんど含有していないので、満腹感はあるが、健康を増進するものではない。そんなわけで熱帯地方では、今では未開の地を除き、主食としては食べておらず、菓子や料理の付け合わせ程度で用いられているに過ぎず、本当の意味で健康によい食物と思っていない。それは日本人の若者ぐらいである。若葉は茹でて野菜として利用されているが、アブラナ科の野菜に馴れている者にとっては、硬くてモソモソした舌ざわりは、お世辞にも旨いとはいえない。
タピオカが下火になると、今度はナタデココなる食品が流行った。マスコミの宣伝に乗せられ、見境なく食いつくのが、昨今の日本人の特徴である。ナタデココはココナツミルクから作るが、それはココヤシの果実の内果皮部の脂肪層を削り取り、搾ったものである。現地では調味料として使われているが、これに強い酸(硫酸など)を加え凝固させたものがナタデココで、さらに中和させるために強いアルカリを使うのである。主にフィリピンでは下層階級の人々が食するもので、上流の人々はあまり口にしない。現在、日本向けの注文が大繁盛で、生産が間に合わないくらいである。中にはナタデココの出荷で家を建てた者もいるとか。問題になっているのは、生産過程に出る廃液のたれ流しで、河川が汚染され、魚が採れなくなったり、水浴や洗濯ができなくなったりして、大きな環境問題になりつつある。しかし日本の気まぐれの消費者がいつまでも「おしゃれ感覚」で食べ続けることも考えられず、この流行もまた自然に沈静化するだろう[現在、思った通りになった!]。
家屋は海岸通りに面した所が多い。通路に面した生垣には、ゲッキツ、アカリファ、ハイビスカス、プセウドランセムムなどを始め、ブーゲンビレアも混植され、まことにカラフルである。家屋の裏の屋敷林にはココヤシ、テリハボク、モモタマナが自然の状態でよく残され、グァバやオレンジなどの果樹も植えられている。その中に抜きん出て目立つ高木のパンヤ、すなわちキワタ(Bombax malabaricum)がある。これは東南アジア原生の落葉高木で30m以上になる。この時期は落葉して、紡錘形の果実だけが木にぶら下がっている。
種子についている繊維パンヤは、パッキン材やクッションなどに利用され、日本でもポピュラーである。材は軽く(比重0.38)、漁の浮子、家具、カヌー、マッチ、パルプ、棺などに使われ、幹から採れる樹脂は薬用にされている。未熟の萼、花芽は野菜、葉は蚕や家畜の飼料、種子は食用油を搾るなど、用途は広い。熱帯地域では一家に二、三本必ず植えられている木である。
同じパンヤ科のカポック(Ceiba pentandra)は熱帯アメリカ原生種で、前種と全く同様の利用がなされている。このカポックは小葉が五から八枚の掌状葉で、ウコギ科のシェフレラ属が酷似しているため、何かの拍子で名を取り間違えられ、カポックには縁もゆかりもないシェフレラにホンコンカポックなどという園芸名がつけられてしまった。まあ、園芸名はニックネームのようなものだから、皆に愛され、広く使われている現在、改名の必要もないわけである。パンヤ(キワタ)科の植物は全世界に約五十種があり、バオバブノキのように五千年以上の樹齢を持つ巨木もあり、ドリアンやパキラなど果実として有名なものもある。
モウアロア登山も中腹に至るころ、雲行きが怪しくなった途端、スコールが来た。皆雨具の用意はなく、道端に生えているクサントソーマ(Xanthosoma sagittifolium)の葉を切り、傘代わりとしたが、雨足は強くなる一方、ほうほうの態で下山した。
クサントソーマ属はクワズイモに似たサトイモ科の植物で、原生地は熱帯アメリカで約四十種ある。芋が食用になるものは、十七世紀頃から広く世界の熱帯に伝播した。一見クワズイモだが、ハート形の葉の切れ込んだ谷の部分の縁に葉柄がついているのが特徴で、クワズイモは葉縁にはついていない。四十種の中には、高さ5mになるものもあり、葉は巨大である。日本では観葉鉢物として、小形の斑入り種クサントソーマ・リンデニー(X. lindenii)が生産されている。
モーレア島に植生するヤシ科植物は圧倒的にココヤシが多い。海岸の自然林ばかりでなく、プランテーションでヤシの実を出荷しているのも見られる。ココヤシから採れる油は、かつて広く食用油として使われていたが、現在ではアブラヤシから採るパームオイルに代わってしまった。しかし工業的脂肪原料として、コプラ(Copra)は重要で、マーガリン、石鹸、ロウソク、ダイナマイトなどが造られる。また中果皮の繊維はロープ、タワシ、ブラシなどに利用される。日本の発明のタワシは、最初国産のシュロの繊維が使われていたが、昭和三十年以降、原料の安いココヤシに代わり、洗車ブラシなど、今ではほとんどココヤシの繊維が材料になっている。
並木には巨大な掌状葉を持つコウリバヤシの仲間(Corypha elata)が目につく。「コウリバ」は行李葉と書き、葉で篭などを作るため、日本の行李に当てはめた和名である。コウリバヤシ(C. umbracuifera)そのものは、古来仏典の紙の代用として使われた葉が貝葉と呼ばれ、また種子の内果皮は象牙状で硬く、ボタンなどの原料にもされたのでセイロンボタンヤシの名もある。コウリバヤシ属はスリランカからスンダ列島に八種あるといわれ、本種は葉柄の基部が螺旋状につき、切跡はまるで大きなネジリン棒で、造形的面白さがある。
並木に径10cmばかりのガラ玉状の果実をたくさん成らせているヤシがある。この果実は三から五稜のピラミッド状のコブで覆われ、ヤシの実としてはユニークである。葉の先端がV字形で不分裂羽状葉だか、ここは風が強いためかココヤシ状に裂けている。このユニークなヤシは、ヘンリーマルケサスヤシ(Pelagodoxa henryana)で、原生地はフランス領ポリネシア、マルキーズ(マルケサス)諸島である。タヒチ島の北東約1600kmに点在する島々で、西経百三十八から百四十一度に十島あり、うち四島は無人島である。比較的新しい火山島で、珊瑚礁はなく、険しい山塊がそのまま絶壁となって海に落ち込む厳しい環境条件の中に人口約5400人が生活している。主食はパンノキの果実であるが、かつて干魃時には人身供儀や食人がなされたという。
○熱帯にも大根があった
島の北東部の飛行場のあるテマエ付近の道路際に、バナナ、タロイモ、マンゴーなどを売る露店に立ち寄る。コーラを飲んだり、ランブータンを食べたり、小休止。野菜売場にはニンジン、タマネギ、ヨウサイに混じって、ダイコンが売られているにはびっくりした。成田出発から十時間の飛行の間、退屈をまぎらわす意味もあり、行く先のクイズ五十問が出題され、問題の中にタヒチにはダイコンはあるかないかという出題があった。解答は現地でということで、これは「ある」が正解となったわけである。
通常熱帯地方では、大根の成長は早く、根が太らずに花は咲き、根菜栽培には不適な土地なのだが、おそらく1000m以上の高地で栽培されたものであろう。大根というにはお粗末な小根で、青首大根の十分の一程度のものであった。姿から見て、これを下ろしたものは大辛口であろうことが察せられる。
大根は古来より日本で改良され、その土地ごとに地方品種があり、生食、漬物、切干などに適応する品種が作られ、亀戸四十日、みの早生、練馬、守口、聖護院、桜島など十四群に大きく分けられ、その品種の数は数百にのぼった。しかし現在のダイコンの主流は、ウィルスに強く、根が半分地上に出て、引抜きやすく、アクがなく、何でも利用できるものである。核家庭にちょうどよい大きさ、何処にでも栽培できるなどの要因で、青首一辺倒となり、八百屋で多くの品種を求めることは不可能になってしまった。
目から涙が出るほどの大根下ろし、煮ると苦味の強い風呂吹き、亀戸、時無、三浦などは一体何処に行ってしまったのでしょう。ダイコンに関してはあまり詳しくないが、青首大根はおそらく愛知県五日市場が本場だといわれている。宮重群の宮重総太の改良品種かと思われる。宮重総太は、耕土が浅くても暖地で栽培でき、首が青く、根は長さ30から40cmとなり、太い円柱形で、首部はやや丸味を帯び、尻部は肉付きがよいのが特徴である。肉質柔軟で元来は切干用品種として、一世を風靡したことがあった。
このあたりは、タヒチ本島に一番近いことから船着場もあり、人家も多い。土産物屋も数件あるようだが、通りから奥まったところにガイド奨励の店がある。タヒチの衣装「パレオ」はオオハマボウの布で、伝統の幾何学模様を描いた「タパクロス」や木彫りの神像「ティキ」などを売っている小綺麗な店に入る。
店は1mほどの高床式で、階段を上がると店である。高床式はタヒチでは珍しく、外から周囲を見渡すと、背後は山で、ここは低地である。なるほど雨が降れば、下水道もなく、通路の側溝のみで、水が溜まることもあるのだろう。土産物の品定めはそこそこにして、店を抜け裏庭に行った。
民家の裏庭は、生活に密着した植物が植えられており、植物ウォッチングのポイントの一つである。高さ5mほどの木に、径9から12cm、球形の緑色の果実がたくさん成っている。和名ヒョウタンノキ、あるいはフクベノキ(Crescentia cujete)である。南米から中米にかけてが原生地のノウゼンカズラ科の植物である。
果実は中をくり抜いて燻煙して、水入れやポットに利用され、ラテン音楽やハワイアンに使われる楽器のマラカスも作る。殻の中に砂や乾いた種子などを入れ、手で振り、拍子(リズム)をとるものである。ほかには民芸品、炊事用具として利用されている。家から出てきた年配の婦人の話では、若い果実を魚(カタクチイワシと思われる)やニンニク、トウガラシと一緒に樽や瓶に漬け込むとのことで、塩気は海水を使い、発酵させて調味料(魚醤)を作るとのことである。
魚醤は醤油の一種であるが、東南アジアのものに比べ、これが臭い。クサヤの干物を焼くとき以上で、こんな悪臭は人生の中でも初体験、ドリアンどころの騒ぎではない。ガイドのウィリアム氏は帰路売店でこれを買い(夫人にたのまれたとのこと)、ビンを開け、匂いを嗅ぎ、陶酔のアクション、皆の鼻先に突きつけていたが、皆の反応は例えようのないものであった。
六月二十九日、タヒチ本島に戻る。首都パペーテは人口約25000人である。中心にカテドラル教会があり、海岸線に沿って開けた街である。北部にはフランス海軍の基地があり、フランスのフリゲート艦に混じって、モーレア島で遭遇した日本の自衛艦三隻の姿も見える。今夜は日本の乗組員の歓迎パーティが海岸広場で盛大に行なわれるとのことである。広場には、「ルロット」と呼ばれる常設の屋台が並び、夜ともなれば普段の日でも串焼きや中華料理をつまみにビールや酒を楽しむ人々で賑わう。海岸通りの並木は高さ20m以上あるフランスゴムノキ(Ficus rubiginosa)が植栽されている。もともとはオーストラリアが原生地で、コバノゴムあるいはコバノゴムビワが和名として使われているが、日本の図書には常緑灌木(高さ2から3m)、常緑低木(3から5m)と解説するものがある。すると、筆者が見ている木は別種?
裏面の茶色の細毛やら葉の特徴を詳細に照らし合わせても、これはフランスゴムノキである。明治の初め、日本にフランス経由で入ってきたのでこの名前があると思われるが、察するところ当初は温室で育てられ、2m程度の樹高しかなかったために、当時の解説が高さ2から3mとされ、それが子引き、孫引きで、図書に転記されていると想像する。執筆に際して全部の原生地に行って調べて、確かめたわけではないと思われ、間違いがあるのは仕方のないことかもしれない。
○タヒチの市場
観光局に寄り、地図やパンフレットをもらい、集合時間を決めて、後は自由行動。通りには土産物屋が軒を連ね、商魂たくましく、自衛艦乗組員歓迎の立て看板やら貼り紙がにぎやかである。中には日本の乗組員は三割引の字も見える。われわれ平民にはあまり恩恵はありそうもなく、こうした店は後回しにして、市営のマーケットに入った。約二千坪の敷地に建てられた市場は、一部が三階建てで、野菜、花、肉、日用品、衣類などがあり、生活必需品は全部揃う。一階の正面入口は、園芸鉢物や花が売られ、種類も豊富である。切花のアンスリウムやラン類、ジンジャーのほとんどはハワイから空輸されている。鉢物の中で目をひいたのは、ユーフォルビアの一種。白い苞が極小で、しかもビッシリつき、まるでカスミソウの大型種を見ているようである。名を聞いたらポインセチアとの答えだったが、帰国後調べたところ、Euphorbia leucocephalaで、中米の原生種で高さ2から3mになる灌木であった。この植物は空港周辺の民家にも何ヶ所か植えられており、遠目でもかなり目立つ存在である。野菜は本島の南西部で作られ、レタス、キャベツ、トマト、ナス、キュウリなどができ、品質は悪くない。タヒチは海抜1000m以上にも耕地があり、熱帯といえども温帯系の野菜栽培が可能なわけである。
一階の南側奥(南半球では、陽が当たらない場所)は魚市場になっており、沖縄でいうグルクンや珊瑚礁のカラフルな魚などがある。小型から中型の魚は鯛に縄を通し、吊るして売られ、大型のシイラ、シマアジ、ロウニンアジなどは輪切りにされてショウケースの中に飾られ、申し訳程度にブッカキ氷が入っている。お世辞にも衛生的とはいえない。第一冷蔵施設がないのはいただけない。ここでないものはマグロ、カジキなど沖合の魚で、これは沖合漁の船や技術がないためかと思われる。エビやカニはあるものの、貝類の姿はない。貝類は広く旧熱帯地域でほとんど食べる習慣はなく、各地の魚市場で目にすることはまれである。
二階、三階は日用雑貨、衣類が売られているが、平均的には、日本より物価は高く、贅沢品ほど税率が高く、タバコに至っては、普通の紙巻き二十本入りが一箱千円もする。タバコをこの島に最初に持ち込んだのは、あの有名なクック船長で一七六九年のことであるが、健康に害があり、一度吸い始めると習慣(中毒)となる、などの理由で、タヒチでは不人気で、同時にクック船長も悪人のレッテルが貼られているのである。
日本にタバコが入ってきた経緯は、フランシスコ・ザビエルが持ち込んだとか、諸説あるが、一五四三年、ポルトガル人に雇われた中国船が種子島に流れ着いて鉄砲を伝えたときと同時だという説がある。時の守護職であった種子島氏は、親方の島津氏にこの種を献上し、薩摩藩は最初に国分で栽培したといわれ、鹿児島小原節で歌われるように「花は霧島、タバコは国分・・・・」となったわけである。喫煙はあっという間に全国に広がり、江戸時代には禁止令も出されたが、その人気は衰えるどころか、逆に下層階級まで広まったのである。断煙を志す人は、タヒチに一年でも移住すれば、タバコ代で生活費が食われ、必然的に止められることになり、是非おすすめをしたい。
食料は比較的安く、肉類、乳製品などは日本の約三分の一で手に入る。おそるべきは車で、港に着いた途端100%の関税がかかるので、特に日本車は高嶺の花である。尤もヨーロッパ諸国の車の関税率は低く、自国車とともに保護の政策がとられている。
六月三十日、パペーテの郊外にある宿泊ホテル、テ・プナ・ベル・エアを出発、島内の植生観察。タヒチ島は周囲約120kmのほぼ円形のタヒチ・ヌイと、周囲約60kmの楕円形のタヒチ・イティから成り、小さいタヒチ・イティの方は、南部に道がなく一周することはできない。今日は大きいヌイを時計回りで一周する予定である。
パペーテの中心部より北東約5kmに、ラファイエット・ビーチがある。ここからは街が一望でき、北西にはモーレア島がよく見える。砂は火山性の黒色で、保水性は全くない。ポマレ五世の墓があり、海岸植生はココヤシが中心で、ハマボウやタコノキの仲間、トキワギョリュウなど。サキシマスオウノキもあるが、板根は発達していない。駐車場際に、オオパイプバナが奇妙な花を咲かせている。学名はAristolochia ringens。このウマノスズクサ科の蔓性植物は中米が原生地で、花は淡紫色で網目紋様があり腐肉のような臭いがある。属名アリストロキアはアリストス(最善)とローキア(出産)の意味で、昔は安産の薬効があるといわれてきた。日本には、この科の植物は三種あり、毒虫や毒蛇などの解毒剤、花は咳止め、去痰薬として用いられた。
海岸通りをさらに20km行くと、「アラホホの潮吹き穴」と呼ばれるものがある。この穴は海岸より100m離れた内陸側の通路際にあり、満潮時や海の荒れている時に、潮を高く吹き上げ、通行する車にしぶきをかけるとのことだった。われわれが行った時は干潮で、激しい空気の流れと波の音が聞こえたにすぎない。付近の岩は玄武岩で、この穴の成因は富士山の風穴と同じように、溶岩中の空気が逸脱する時にできたのではないかと考えられる。
海に向かう展望台に、丸葉対生の小低木が植栽されている。これは熱帯アジア原生のガガイモ科のカロトロピス(Calotropis gigantea)である。日本ではあまり馴染みはないが(沖縄海洋博覧会記念公園の路地でよく育っている)、ポリネシアでは、花をレイに、茎から繊維をとるほか、民間薬としても利用されている。
パペーテと真反対側に当たるパペアイまで約70km、大きな生簀が回覧できる水上レストランにて昼食。メインディッシュは魚料理で、先程生簀にいたチョウチョウウオか、フエフキダイの仲間か、あまりの揚げ過ぎで外皮の色別もできない。熱帯地方の空揚げは何処も同じで、カリカリ煎餅のようで、肉の柔らかさとか味などはない。
○植物園とゴーガン記念館
ここは入江になっており、対岸には植物園とゴーガン記念館がある。この記念館は、一九六五年に開設され、ゴーガンのタヒチ島およびマルキーズ諸島における生活が展示され、彼の作品「夢」のほかに、二枚が飾られている。ゴーガンの作品は単純な色彩と明白な線が特徴で、これは彼が日本の浮世絵を究極の絵画と考えた影響によるという。記念館の庭園には、ライヴァヴァエのティキ(神像)大小二体が置かれ、この像を動かそうとした者には呪いがかかると伝えられる。大きいティキは高さ約2m、足をやや開いた座像に見え、小さい方は高さ1m、直径約40cmの円柱で、先端に至る途中がクビレており、察するところこれはタヒチ版の道祖神である。
植物園は18万m2、一九一九年、アメリカの植物学者、ハリソン・スミス(一八七二~一九四七年)によって開設されたもので、彼はタヒチに250種の新しい植物を導入した。その中で最も喜ばれたのはボルネオ原生種のグレープフルーツで、今でもタヒチの食卓を飾っている。ヤシ類も多く、サゴヤシ(Metroxylon sagu)、ダイオウヤハズ、サトウヤシ、ジョオウヤシ、ニコバルヤシ、リクアラなど種類も豊富である。
入口の左側にナギによく似たトタラ(Podocarpus totara)の古木がある。高さ約8m、目通り60cm、さほど太くないが、おそらく開設当時に植えられたものであろう。この木はもともとタヒチにはなく、ニュージーランドの原生種で、材は硬く、建築用材、家具、カヌーなどに使われてきた。葉がナギより少々長いことを除けばまるでナギで、素人目では見分けがつかない。
マキ科は、大きく分けると深山性と海浜性に分かれ、葉も被針形から長被針形、変わったところでは、ダクリディウム(Dacrydium)のようなスギ葉ようのもの、セロリの葉に似たセロリー・パイン(Phyllocladus hypophyllus)などがあるが、日本に産するマキ科は、イヌマキ、ラカンマキ(イヌマキの変種)、ナギの三種で、コウヤマキは、名はマキでもスギ科である。この三種は滅法潮に強い海浜性の木である。ナギは紀伊半島に多く、海の凪を祈る漁師や船乗りの安全を守る神社に御神木として祭られ、中でも速玉神社の大木は有名である。イヌマキは台湾より黒潮の流れに沿った太平洋側では福島県まで分布し、関東では千葉県で庭園樹や鉢物として生産され、県の木にも指定され、この地方の高生垣もすばらしい。
産地の一つに、本納植木生産組合がある。県の依頼で何年か前に講演を頼まれたことがあった。講演が終わり、質疑応答の中で、マキは畑で生産した後、再度苗を植えるとうまく育たず、この忌地現象をどうしたら、早く解決できるかとの質問があった。忌地植物にはマメ科、ウリ科、ナス科などがあるが、普通三から五年間は同一作物がうまく育たないといわれ、中でも「苧麻」(カラムシ)は頑固で、十年は栽培できないといわれている。原因としては、必須微量要素の減少、雑菌、寄生虫の発生などが挙げられている。ともあれ「畑に海水を撒き、乾いたら塩が白く残るほど何回もやれば、効果はあるでしょう」と答えた。この筆者の答えに一同ビックリ?
順次説明したら納得したようであったが、この忠告を試した話は未だ聞かない。
海水には必須微量要素が含まれており、塩分は雑菌や虫を殺す作用がある。この数十年来、大きな台風の上陸はなく、潮が内陸部まで上がることがない。確かに他の植物や工作物には、台風による一時的塩害はあるものの、長期展望では薬になることもある。
マキにとっては、海水は恵みともなっているわけで、筆者がマキの原生地の一つ奄美大島で、根が海水に浸り、大波がくれば頭から被ってしまう場所に、マキの古木が豊かに枝葉を繁らせている事実を何度も目撃しているからである。
植物園内は果樹も相当数植栽され、スターフルーツ、ピスタチオ、キャニモモ、プア、パラミツ、バンリュウガン、ランブータンなどポピュラーなものに混じって、アキーツリーと呼ばれる珍しいブライア(Blighia sapida)があった。これは西アフリカ原生のムクロジ科の常緑高木で、果実は倒卵形、種衣に甘みがあり、生食あるいはフライにして食される。ビワ大の種子は有毒、未熟・過熟果は総てが有毒で、食べるには時期があり、時期や食べる個所を間違えると死にも至るという。フグとカキを混ぜたような果実もあったもので、さぞかし美味であろうと思われたが、口に運ぶ者はさすがに誰もいなかった。
日本には、ムクロジ科の植物は四種自生し、ムクロジの種子は正月の「羽根つき」の玉にされ、果肉は石鹸の代用となるだけによく泡が立ち、洗い物、手洗いなどに利用されてきたが、化学合成洗剤万能の世では、その利用法を知る人は少ない。
ムクロジ科は、熱帯では果樹として利用されているものも多く、レイシ、ランブータン、リュウガンなどがある。
花木類は雨期明けで、日照も充分なこの時期はカッシア、カリアンドラ、島の花タヒチクチナシなど百花繚乱。珍しいところでは、ユリの花状のザボンノキ(Randia dumetorum)、オクナ(Ochna)も、一本の木に黄色と赤の花を着けている。高木では、カエンジュ、マメ科のサラカ(Saraca)はS. indicaに加えて、イエローサラカと呼ばれているS. thaipingensisも花と同時に、目立つピンクの新葉を下垂させている。サラカはインド原生種で、仏典では阿輸迦樹(アソカジュ)といい、梵語を訳して、無憂樹、つまり全く心配の無い木の意味で、大般涅槃経第三十三、大智度論第十などに出てくる。憂いがないとは、うらやましい限りで、仕事や税金を年中心配している者にとっては、たまにはあやかりたい木である。
植物園の奥には、イチジク属の大木がある。おそらく、二百から三百年は経ているであろう。気根が太く、直径1mほどのものが五~六本あり、細かいものは無数にあり、生命力の強さを印象づけている。イチジク属(Ficus)は、熱帯ではその豊富な果実で、サルやリスなどの獣、地に落ちて昆虫などの餌、川に流れて多くの魚を養い、生態系を保つ上で重要な役割をしている。
帰路、マラアの洞窟を見学、上部に無数のシダ(ネフロレピス)を長く垂らし、奥から冷たい清水が流れる玄武岩の洞窟である。ゴーガンはその著作の中で、この洞窟の湖を泳いで渡ったと述べているが、泳ぐほどの広さと深さはない。彼の描写にはかなりの誇張がある。最も芸術家は、ノミが跳ねても馬が飛んでいるように見えなければ、仕事として務まらないのかもしれない。
七月一日、二十三時五十九分、パペーテ発、七月三日、六時二十五分成田着。日付変更線を越え、実質十三時間はかなり疲れるが、現地で得た体験、見聞は、その疲れを忘れさせてくれるものがあった。
完売
[2000/03/25]田中耕次 著 / アボック社 / 2000年 / B6判 286頁
定価1,650円(本体1,500+税)/ ISBN4-900358-51-7
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